豊圀神社御由緒
御由緒

<祭神>
主祭神は、応神天皇の御尊霊であり、後に息長足姫尊(神功 皇后)、武内宿禰大臣をお祀りしています。
社伝によると、欽明天皇の御代に豊前の国、宇佐神宮に降臨された八幡神を当地にお迎えしたと伝えられ、当社は宇佐神宮の分社です。また古老の説によれば、豊国山の山頂にある大覚寺に宇佐神宮より八幡神がお出ましされて池庄の社に移鎮されたとも伝えています。
<社殿>
当初は神殿楼閣ともに宏大壮麗であり、幾多の社殿も整然と建ち並び、四方を圧していました。しかし、織田信長の兵火に かかり社殿をはじめ神宝・記録などが焼失しました。 現在の社殿が復元されたのは、1789年です。
<厄除け例祭の起源>
江戸時代の最上藩最後の大名である第13代城主最上義俊公が近江国大森村に陣屋を置き、代々この地を領有して以来、特に当社を崇敬されました。その子義智公が父の後を継ぎ、領内巡視の都度、必ず当社に参詣されました。義智公が41歳時に当社に衣 冠束帯姿で家臣を引き連れて参拝した正月19日(旧暦)を「灯明料献上日」と定め、幣帛として米一俵、幔幕、最上家伝来の弓一張を寄進献納して厄除けの大祈願をされました。従来祭礼は 4月初めの卯の日が恒例でしたが、逆に正月19日を本日 (ほんび)とし、18日から20日を厄除け大祭日と決めました。
歴史的経緯厄除けの 起源と例大祭

<辛く、悲しい、怒りの歴史>
神社は、有史以来、当地を治めてきた時の権力支配者の庇護(ひご)を受けてきましたが、戦国時代の元亀2年(西暦 1571年)、近江侵攻を果たした「織田信長」の兵火により壮麗な社殿をはじめ宝物・記録等の全てが消失し灰燼に帰します。
<厄除けの起源と例大祭>
天和8年(西暦1622年)、德川第二代将軍秀忠の御代に、出羽国(山形)第14代城主「最上駿河守義俊」公が、大森村(現東近江市大森町)に陣屋を設け、当地(1009石)を領有して以来、特に当神社を崇敬されました。
その子「最上義智」公は、父の後を継いで領内巡視の都度に必ず当神社を参拝されましたが、厄年の前年である前厄の41歳の時に、先祖伝来の弓等の家宝を寄進して、御祭神への敬神の意を明らかにしました。
その後、最上家では、代々が燈明料献上日の正月19日となっていたことから、領民はもとより、領主の行列を拝観しようとする人々の賑わい等から、御祭神の霊験あらたかな「御神徳」を得て、御利益が頂けるよう参詣者が増加したため、1月18日、19日、20日が「厄除例大祭」に発展し、地元のみならず遠方からの参拝者が多数押し寄せ、「厄神さん」の愛称で、各層、各方面の人々から幅広く敬神され、親しまれる存在となったものです。
復活・復興の願いと 歩み

<神社社殿の復活・復興は、信者、氏子住民の切なる願い>
戦国時代、織田信長の焼き討ち被害に直面した当社殿は、「復活・復興」を願う当時の人々らのたゆまぬ努力により、長期間の歳月と資金を要したものの、一途で気高い信仰心から世紀と世代を紡いで、神社を社・廃絶にすることなく、見事に復活、復興を成し遂げることが出来ました。
社殿等の焼き討ちから数えて約200年の歳月を経た江江戸時代中期の寛政元年(西暦1789年)、氏子らの献身により現本社殿が復元・建立されました。本殿社屋の建物は、江戸中期の18世紀後期の特徴ある社殿建築であり、今年で235年が経過するところの「東近江市指定文化財」であります。
<神社が保有する神仏習合の証の「神鐘」の存在(全国的にも稀少)>
付近に樹齢が300年を超えるご神木「楠」が存在する「釣鐘堂」には、本殿が再建される以前の300年以上前の江戸時代中期である正徳5年(西暦1715年)、当神社が鋳造・所有した「神鐘」があったが、昭和16年(西暦1941年)の戦時下の国策「金属供出令」により、「旧神鐘」は政府に供出されて、戦闘武器に熔解されて国に殉じました(226年間存在)。
終戦後間もない昭和22年(西暦1947年)、氏子中の熱意と努力により「現神鐘」を再鋳造した稀少価値の高い復活の神鐘です。
